「本州最北端」のタイトルは下北半島に譲るものの、リンゴの名から始まり、日本の歌のスタンダードナンバーになった石川さゆりの歌など、ネームバリューはピカイチの津軽半島。自分の目で見たわけではないから断定はできないが、地図では、南北(上下)に連なる「津軽山地」と呼ばれる山塊は、半島のかなり東(右)寄りに位置していることになっている。
となると、平地は必然的に西(左)側に多いのだが、不思議なことに「七里長浜」と表示されたその海岸線沿いには道が一本もない。内陸に2キロほど入って道路地図で言う地方道、さらに2キロ奥まった、亀ガ岡遺跡がある県道12号の2本が日本海に並行して走っている。
この県道と、津軽山地の山裾を走っている、太宰治生家の斜陽館がある金木町を通る国道339号に挟まれた平地には、排水路・放水と書かれた青い線が縦横に走っている。
「道」を元に戻すと、県道から左、つまり海に挟まれた部分には溜池や沼が数多くあり、湿地を示す青い破線も断続的に広がっている。このくらい説明すると、大体この半島の下半分の地形が頭に入ったと思われるが、頭を振っている人は地図を引っぱり出すこと(百読は、一見に如かず)。
毎夏の恒例となった東北巡りだが、今年は三内丸山遺跡を見学した後に、地図を眺めるほどに気になるこの地を実際に走破しようと計画を立てた。亀ガ岡遺跡再訪もあるが、「湿性植物群落」とか「原生花園」の名前を見つけたことが大きかった。
車相手の果物売りの屋台だけが目に入る中で、畑の中の一軒家というラーメン店に寄った。生まれて初めてのネギラーメンを食べ終えると、もう7時に近かった。
国道101号から分かれて入った道を、スモールを点けて北上した。「津軽」といっても極普通の田舎道だが、夕暮れ・まだ宿も定まらぬ一人旅とくれば旅情も一塩だ。胃の底から湧いてくるようなネギの味と匂いに、「開店記念サービス」の品書きが掲げてある真新しい店内で切り盛りしていた若主人と、母親らしい二人の姿がしきりに思い出された。
この道は歴史が新しいのか、集落に入る道が左に分かれ、しばらくするとまた左から合流するという「逆バイパス」形式になっている。それを何回も繰り返すが、左側に見えるはずの海や池・沼も、夕闇の暗さを割り引いても一向に見えず田や林が広がるばかりだ。
最終調達店と思われる酒屋で缶ビールを仕入れて走り出すと、程なく亀ガ岡縄文館の標識が現れた。ここで道を一本間違えていた事に気が付いた。県道を走っていたのだ。GPSの縮尺を最小に切り替えると、現在位置の左にもう一本の道が表示した。何のことはない、目的とした道は省略されるほどの一般的には使われない道だったのだ。
すでに暗く、宿泊場所を探しながらの走りとなった。整備された亀ガ岡公園があったが、できれば海沿いがと欲がわき、横目で見ての通過となった。突き当たりの左右に広がる道が予定していた道で、左折して今度は南下した。ほぼ直線の道は舗装はされているが、周囲は畑か原野のようだ。対向車も皆無で、生活を表す灯りは一切なかった。
「湿原入り口」の小さな標識に誘われて車を乗り入れた。未舗装路だった。標識がない分岐を前にして停車する度に、砂埃が後部から車を包む。狭いが何とかすれ違いできそうな道も、「社有地立入禁止」の看板を過ぎたところで完全な一車線になった。
ヘッドライトに浮かび上がる萩やススキを避けながら前進する。この時間では対向車の心配が全くないのが行動を大胆にさせるが、海岸にたどり着ける可能性が道幅とともに少なくなっていくのが分かる。しかし、明日の偵察になる、と理由を付け、行けるところまでとさらに進入を続けた。
液晶画面の三分の二は湿地を表す緑色を妖しいまでに輝かせているが、すでに先ほどから道は表示していない。車の軌跡を表示する点線の先の自車のマークは、青く塗られたベンセ池と大滝沼の中間辺りを指しているが、このスピードでは遅々として先へ延びない。先が読めない道と分岐に、海岸まであと約1キロと思われる時点であきらめ、撤退した。
「スイカ」の旗が立っている小屋横を宿泊場所と決めて一時停止すると、左に脇道があるのに気が付いた。道路沿いより奥まった方が、と乗り入れると異常に広い空き地が出現した。
エンジンを止めると、2キロ離れたこの場所でも重く低くうなる海の音が聞こえる。山育ちには潮騒とも海鳴りとも判断がつかないが、すぐそこまで波が押し寄せているのではないかと暗闇に目を擬すほど不安を与えた。
目をさましてすぐに辺りを見回す。周囲には何もないから、陽の下でも異常な空間であるのに変わりはなかった。砕石で整地されてあり駐車場に使わる白線様の痕跡があるのでさらに遠方に目を配ると、道を挟んだ先に何かの塔が見える。ゴミは見当たらないが雑草が生えた更地は廃業した何かの施設の駐車場だったのだろうか。
ここから歩いて行こうと思ったが、砂埃を浴びるのもつらい。昨夜の立ち入り禁止の所なら広いし転回もできる、と再び朝日を背に車を乗り入れた。周囲は畑だった。道脇のビニールトンネルや野菜が土埃を被っているのが見える。農作業の人影は全くなかったが、徐行し埃の発生をできるだけ防いだ。
水筒だけを持って湿原散策に出かけた。観測塔の下から始まる木道の遊歩道は左右から草が覆っている。短パンに素足だから、避けられない緑との接触にツツガムシの恐怖が頭をよぎる。
ニッコウキスゲはすでに遅く、花姿と余りにもかけ離れた茎の先に膨らんだ玉からは往時を想像することはできなかった。それでも、七月中旬とあるノハナショウブの咲き残りが幾らか慰めてくれ、決して「絵」にはならない自分の姿だが、しばし紫の花弁に見入った。疲れたような緑の葉先を押さえ込むように揺らす見えない風を見ているうちに、夏の衰えに自分の黄昏を重ねていた。しかし、青い空を見上げてそれを打ち消した。
「埋没林発見場所」の立て札に興味がわいた。土が砂に変わると、それがサンダルと足の隙間に潜り込んだ。すっかり忘れていた若かりし頃の感触だが、今は不快としか言い様がない。ツルツルに磨かれた玉石が気に入りお土産と一つを手にしたが、余りにも多くあるのに興味を失い砂上に戻した。
ハマナスの実を見つけた。花も咲いている。「ハマナス」はよく聞いたり読んだりするが、自分の目で見たことはない。写真での姿形も記憶に残っていないから、木なのか草なのかも分からない。
しかし、一目でハマナスと分かった。橙色の実は見ようによってはナスに見えたし、何よりも海辺に咲いているではないか。大柄の濃いピンクの花は、朝から続いている坦々とした感情の起伏と名前ばかりの原生花園に失望した後だっただけに、嬉しかった。
こんな上にまで、と思うほど発泡スチロールやビニール製品のゴミが散乱している。波の音が高いだけに、意識の隅に「津波」が頭を持ち上げる。切り通しの崖から滲み出た、油が浮いたように青く光る水を避けて急坂を下り切ると砂浜に立った。
日本海が広がった。波がかなり高い。これが海鳴りの源だった。「海水浴だったらこの広いビーチを独り占め」と思ったが、海に馴れていない山人にとっては、かなりの頻度で沖の状態を確認しなければならないほど波は白く大きく、全く落ち着かなかった。
砂浜は結構広いのだが、背後から立ち上がったような5メートル以上はある黒い泥炭層の崖が延々と続き、その壁から崩れ落ちた大きなブロックが幾つも転がっている。人工物が全く見えないだけに、「亀ガ岡人」が歩いていてもおかしくない太古の世界に迷い込んだような異様な眺めだ。確かに縄文時代の原風景とさほど違いがないだろう。
一方で、足下には様々な生活を感じさせるゴミの漂着物があり、その存在が平静な心にさせるのが不思議だった。
崖の最上部から水がしたたり落ち、海岸線に沿ってあらゆる物を褐色に染めている。その水たまりにある、表面が青く光る石が貴石に見えて心が弾んだ。一旦は手にしたが、泥炭の水がそうさせるらしく全ての石が光るのを見て海に投げ入れた。先ほどの玉石といい、どんなに綺麗でも希少価値がなければタダの石だ。
案内板がないので崖を注視しながら歩いた。埋没林というと富山の魚津を思い出すが、見つけたのは、あの巨大さと比べると慎ましいほどの木の枝だった。
今朝は早起きした甲斐があって時間に余裕がある。ビーチコーミングをしながら引き返した。しかし、流木やゴミが全てで、オーム貝の夢はすぐ捨てた。考えてみれば南国の貝が漂着するわけがなかったが、代わってハングル文字が印刷されたペットボトルやビニール製品が目に付いた。
十三湖(じゅうさんこ)から続いた海沿いの道が、権現崎の付け根からいきなり山道に変わり、峠から一気に下るとT字路。標識は右を「竜飛(たっぴ)」と教えているが、正面の漁港に紅白の幕も鮮やかな舞台が作られているのに気がついた。何やら祭りのようで、思わずその広場に車を乗り入れた。近づくと「小泊村制百周年記念式典」とある。「なーんだ」とがっかりしたが、貼られた式次第を読むと権現太鼓とか小泊音頭とかの文字が目に入り、これは面白そうだということで見物することにした。
開会にはまだ時間があるので、港の周りを探検することにした。初めての土地を歩き回るのに、この「探検」という言葉がよく似合う。毎回「未知との遭遇」にワクワクし、「ハプニング」を期待して「素敵な出会い」を夢見るが、いつも「道に迷い足が棒になる」という結果に落ち着くのも、また、この探検である。
にぎわうメインストリートを歩き、路地に潜り込む。古い構えの民家や商家を見て、その庭をのぞく。しかし、猫をからかい、昔懐かしい看板を見つけ、土地の人となにげなくすれ違ったりしているうちに、解放感はあるのだが何か重苦しい感覚に捕らわれてくる。
旅に出る前のあの胸の高まり。それが進行形になると複雑な思いが絡み合い、胸を圧迫し始める。旅への憧れが現実になった喜びと、日常の暮らしから離れた不安がそうさせるのだろうか。
しかし、この海辺の村は「自分の旅情」にはお構いなく、地元の人々の日常の意識に包まれて素っ気なく存在し、ただ強い日射を照り返している。
風の匂いが変わった。イカの一夜干しの屋台だ。のぞくと、先客の若い夫婦が焼き上がるのを待っている。「今日は、ちょっと高めかね」と、おばさん。冷凍ではなく、ここで採れた物だから漁の状態で毎日値が違うそうだ。
アツアツをかじりながら、漁船がぎっしりと係留されている港に戻った。すでに、村人や帰省中らしい垢抜けた若者が集まっているが、広場の隅に座って黙々と網の繕いをしている年寄りが一人いる。その背中が、「オレには関係ないね」と突っ張っているようで面白かった。
村の重鎮達の挨拶が終わり、岬の名から採った「権現太鼓」の登場。ふるさと創成金の一部で揃えたという太鼓が新しい。猛練習のせいか仲々のもので、女性も一人加わっていてイナセな姿が演奏を盛り上げる。バチさばきのアクションもいい。
老人クラブの、場慣れしないのか練習不足なのか、自分勝手な動きが楽しい網上げ歌や、舞台が狭くて全員が上がりきれないまま踊っている新作「小泊音頭」のお披露目。さらに、学校の先生が津軽三味線をバックに唄う民謡の数々が港いっぱいに響いた。思いがけない「津軽責め」に、今回の旅は小泊だけでもいいなと思いながら、もらったプログラムを敷いて座り込むこととなった。
五所川原市から呼び寄せたという期待の花柳社中の登場。津軽民舞という、リーダーが「ハイ」「ハイ」と掛け声で指図する子供達の踊りが楽しい。目線や指の形まで揃っていて、場慣れし過ぎているのが不満だが、踊る毎に衣装も変わり文句無しに可愛い。
ピッチが早くて音が大きい太竿の三味線とダイナミックな踊りに、「これが津軽だ」と何回もうなずいてしまった。テレビでも放映されたという、海に浮かべた台船の土俵から落ちたら負けという「海中相撲」も始まったが、そろそろ潮時だ。
少し古い地図では途切れている国道339号も、現在は幅員は狭いが全通しており、連休の最中とあって交通量が多かった。峠への登りはガイドブック通りとなった名物の霧で、展望は全くきかなかった。竜飛崎燈台がある台地上は、なんと大駐車場に観光客の群。無知というか勉強不足というか、イメージとしての「最果ての岬」は何処にもなく、行列でその存在を知った「青函トンネル体験車」も予約が一杯で早々に引き上げた。
迂回路の急坂を下りきると、濃い青い夏の空と海・日に焼けた地元の子供達と、冬の厳しさが全く想像できない、ひなびた海辺の村があった。しかし、十三洞門の存在や、道沿いに幾棟も連なる小屋の変形した灰色の柱や板に見られる、風雪が深く刻んだ年輪の凹凸に少し心が引き締まった。
竜飛崎にはまだ心残りがあるが、それを振り切り、松前街道を蟹田へ向かった。
平成7年8月