地図上で、竜飛崎から津軽半島の北端を東へ向かう松前街道は、平舘村に入ると徐々に方向を変え南下するが、車で走っているとその感覚はない。相変わらず左に海を眺めながらのドライブだ。異なるのは、海峡を挟んで下北半島が存在していることで、その壁のようにそそり立ち連なる様はかなりの圧迫感がある。
蟹田へ向かう。フェリーの案内板を見つけ左折する。港を見るとまだ停泊している。慌てて切符売り場に飛び込むが、時刻表を見ると出航まで五分しかない。「ローカル船」だから待ってもらえるかと窓口へ声をかけるが、即「駄目です」の声。
蟹田─脇野沢(下北半島)間に航路があるのは知っていたが、出航時間が分からず、最終便に間に合えばいいし駄目なら青森経由だ、と軽く考えていたが、目の前で逃げられるとやはり悔しい。しばらく船や対岸を眺めていたが、気持ちを切り替えて青森へ向かった。
心配していた市内の渋滞もそれほどでもなく、陸奥湾に浮かぶ夕日を見ながらの国道279号は、信号も少なく快適だった。助手席側から付き合ってくれた大きな太陽が沈み、しばらく抵抗していた昼の名残の赤く染まった雲が徐々にグレーのモノトーンに変わると、代わって様々な街の灯が徐々に浮かび上がり、その濃さを増してきた。
その光の波を幾つかくぐり抜けるうちに、その明かりの数だけ生活があるんだなー、と湿っぽくなってきた。短い夏の終わりを迎える寂しさに気付かない振りをし、今は精一杯旅を楽しんでいるはずの張り詰めた心も、すっかり緩んでしまった。
半島の喉にあたるむつ市を駆け抜け、行ける所までと闇の中を突走った。川内町を過ぎると、対向車もなく人家もない。海も波頭がわずかに光るだけで、陸との境もハッキリしない。遠くに、集落毎に灯がカーブしながら伸びているのが見え、それから海岸線が判るという夜の海辺の道だ。
明かりに飛び込むと、お祭りだ。夜店と行き交う若者や浴衣姿の親子連れと、この時期には各地で見られる夏祭りだ。ところが、小型ながらも子供達が曳いているのは確かに「ねぶた」で、思いも寄らない夏の夜の出会いに心が弾んだ。
山車は、写真で見馴れた人形状のものと違っていた。ガイドブックでは「弘前型(ねぷた)」とあり、扇状の灯篭に絵が描かれていた。青森の豪快な祭りと違って派手さはないが、御柱の小宮の様に「子供達の祭り」と見受けられた。
和やかに曳いている人々を、徐行しながら車の窓越しに見ていると、何かモヤモヤとしたモノが胸の奥底に存在しているのに気がついた。祭りの主人公になれない見物人であることの寂しさとも違うその何かが次第に膨らんできた。
本来なら自宅で一家の長として先祖の霊を迎えるべきところだが、こうして一人で遊び回っていることへの「後ろめたさ」ではないかと思い始めると、それを否定できない分だけ罪悪感が募ってくる。
さらに、警備の消防団員の誘導で強制的に迂回路に回されると、その異邦人の扱いと街灯だけの暗い路地に、益々落ち込んでしまった。
次の部落でも、同じ様なねぷたが現れた。その横を小さくなって通った道を挟む家々の戸口には、その「家と家族」の存在を主張している家紋付きの大きな提灯が飾られている。
細長い集落も終わりに近づくと、道路に面した戸を全て取り払ってある家が何軒かある。まる見えの家の中に明かりが満ちあふれているが人影が無い。祭りでも見に行ったのか路上にも居ず、生き物・動く物が見あたらないというまことに奇妙な光景だった。
そして、集落の最後は家々が次第に疎らになるのではなく、いきなり闇が始まる。街灯も無いからその落差が余りにも大きく、今見てきたのは幻だったのかと、思わずバックミラーを見つめてしまった。萎縮した精神の張りを取り戻すため、スピードを上げて夜道の運転に専念した。
いきなり現れた三差路はどちらも同格で、判断がつかないまま停止してしまった。左側には防波堤があり、夜釣りを楽しむ人々が灯すランタンの明かりが漏れている。偵察には歩きが一番と、その灯りに向かった。
正面の建設資材の山が途切れると、港があり、町の灯があった。ここがフェリーで上陸するはずの「脇野沢」だった。
フェリーに乗り遅れたのが正解で、夜行でしか味わえない下北の夏に巡り会えたが、改めて「お盆とは」と考え直してしまった。
奥薬研温泉の無料の露天風呂を楽しんでから、恐山へ向かった。地図に「あすなろライン」と書かれた道は舗装工事中の砂利道だが、先行車は道を譲ってくれる気配もなく、四駆を楽しむ機会が無いまま恐山入り口の朱塗りの太鼓橋に着いてしまった。
恐山菩提寺の境内には、何と無料の温泉がある。せっかくここまで来たのに入らない手はないと、古滝ノ湯・花染ノ湯等の名前が付けられた四棟ある小屋の一つに入る。この存在を知るか知らずか、たまに中をのぞく人はいても、ほとんどの人は歩きやすい参道を歩いている。
自分で勝手に付けた「恐山温泉郷」と呼ぶには余りにも粗末な小屋掛け温泉の「ハシゴ」に、我ながら暇だなーと感心したが、異様な雰囲気はそれなりに楽しめる。
三棟めからは女性の笑い声が聞こえる。こちらは「全湯制覇」が目的なので下心は全くない(とは断言できないが…)。思い切って戸を開けたが、五、六人の裸身を確認しただけで、抗議の声には背を向けるしかなかった。
緑が少ない砂礫がむき出しの高低がある境内を巡った。薄暗い太子堂に一歩踏み入れると、雑貨屋だった。といっても、恐山にはそんなものがあろうはずがない。ここには、亡き人(子供)を偲び接点を持とうとする人々が供えた、おびただしい量の現世の「モノ」が供えられている。
台にはあらゆる種類の菓子パックが積まれ、厨子の両脇には天井から衣服が吊され、下の板敷きには玩具など様々な物が置かれている。管理人らしい男性が、それらを休む間もなく箱に詰め片付けている。
右側の白い包みが紙オムツである事に気がついた。手縫いの晒の方が心がこもっているのに、と他人事ながら腹立たしかった。代わって、赤いランドセルが目に飛び込んだ。鈍く光る赤色が目から胸にグサリと突き刺さり、しばらくの間動くことができなかった。
明るい太陽の下の笑い声や話声が絶えない行列に、我が身に取り憑いていた「恐山」は微塵もなくなってしまった。硫黄の匂いを除くと「血の池地獄」とか「重罪地獄」の名も虚ろに響き、石の地蔵や卒塔婆・虚しく回る風車・賽ノ河原に積まれた石の山も、遊歩道と化した参道に変化をもたらす単なる点景に過ぎなかった。
「紙オムツ」を今思い返すと、ハイテクのかたまりの快適さは、手作りのソレよりも上回るのかと考え込んでしまった。
平成元年8月