十和田市から野辺地町へ向かう国道4号線。「みちのく有料道路」の標識を左に見てから更に約3キロ北進した地点に、林や牧草地に囲まれた「上北自動車学校」がある。その敷地のはずれに「日本中央碑」の小さな案内板があり、矢印の先に砂利道が延びていた。
朝7時前とはいえ、すでに真夏の一日は始まっている。一秒毎に確実に気温を上げさせている太陽の存在を背中一面に感じるが、それを受け入れる余裕はまだある。
右側には、あらゆる種類の道路がコンパクトに収まった灰色の箱庭が広がっているが、左は牧草地で、牛が四頭思い思いの格好で草を喰んでいる。一見のどかでさわやかな牧歌風景だが、草の間に見え隠れする褐色の大きな塊は無視できない。私の気配を感じたのか、手前の一頭が涎を垂らしながら振り向いた。
書店で前もって下調べ(立読み)した『青森県の歴史散歩』では、「碑は自動車学校の裏にある」とあったが、まさにその通りだった。杉の木と覆屋に守られ、石とコンクリートで作られた基壇上に「それ」はただ鎮座していた。ここまで車で乗り入れる人も多いのか碑の前の広場は格好の転回場で、轍がロータリー状に緑を奪っていた。
覆屋と言っても屋根はトタンの波板で、右に傾いた粗末な柱は筋交いで補強されている。倒壊も時間の問題と思わせるほどのみすぼらしさである一方、説明板は立派で、このアンバランスが未だ確定しない碑の重さ(価値)を表していた。
石碑の背後に廻ってみた。覆屋の奥壁に「四角い穴」があり注連縄が掛けられている。それが「つぼのいしぶみ」と騒がれた「日本中央」の碑が発見されるきっかけとなった馬頭観音の「家」らしいが、中は空だった。自身が刻まれるはずだった大石が「歌枕で知られるつぼのいしぶみ」だったために、観音様は未だに体を持てず、その背後で見えない体をさらに小さくしているようだった。
碑は、目測だが高さ180cm・幅80cm・厚さは50cmだろうか。丁度、右手の指をくっつけ手のひらを自分に向けたような形をしている。形状は紹介した通りだが、「碑姿」として見ると見学者の情緒を不安にさせる。
その原因は、石の長軸と縦書き文字の長軸がズレていることにあった。双方の中間を採ったためか、碑は右へ傾き文字は左へ傾くという「日本中央」になってしまった。
10cm角の文字は、近寄らないと読みとれないほど浅く彫られている。鋭利な金属で引っ掻いて色が白く変わった程度の落書き状で、書体も直線を多用して単純だ。釘などで、彫れないまでも力を入れて字を書くことを考えると、曲線は短い直線の集合体になる。「央」の「人」の部分が当にその状態で、「矢筈で彫った」との説明に如何(いか)にもとうなずいてしまった。
「事実」が在って「伝説」が作られたのか、伝説に合わせた贋作なのか。実在を疑われている坂上田村麻呂とともに、キリストや義経伝説・日本最古の籾・遮光器式土偶、新しいところでは三内丸山遺跡と、数多い青森のミステリーゾーンは、更に自分を惹きつける。
「矢筈って何だ」と調べれば、辞書では〔矢の弦に掛ける部分〕とある。あの二股のところかと思い起こしてみたが、博物館等でよくお目に掛かっている筈の割に具体的な形状と大きさが浮かんでこない。それにしても、矢にこだわれば鏃(やじり)で彫る方法が順当と思うが、何か矢筈でなければならない理由があるのかもしれない。
平成6年8月