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丹波の山奥をさ迷う「光明寺二王門」 〈京都府綾部市〉

 詳細は省くが、正式名称は「仁」ではなく「二王門」(だった)

【国宝・光明寺二王門】一二四八年の竣工といわれ、鎌倉時代の和様系二重門。

舞鶴から綾部へ

 なぜ、こんな時間に、こんな丹波の山中でウロウロしているのか、我ながらおかしくなる嫌になる。もう4時も近いというのに、旅の総仕上と言うべき「光明寺二王門」は見つからず、山深くなるばかりの君尾山中を泥にまみれて走り回っている。しかし、舞鶴からの道程の困難さを乗り越えた自分と車にとって、そう簡単に諦めきれるものではない。

 道路地図では舞鶴経由の道が一番近いが、併記された「山あいの難コース」が引っかかる。しかし、「県道」の表示と残された時間からもう選択の余地はなかった。その分岐点があるはずの県道28号だが、交差点の先に続く道が人家に挟まれ狭くなっている。標識も「左・国道」の文字があるのみだ。
 ここまでに行き先案内の標識が無かったことから、とりあえず、方角から推して右折してみた。しかし、念の為にと訊いたおばさんに「山一つ違う」と言われると、幾らか焦りを感じ始めた。
 そこで、地形から判断すると「ここしかない」という交差点まで引き返し、信号に地名表示が無いのを再確認して左折した。それでも、スーパーへ入ろうとする女性に教えを請うと、「峠越えのクネクネ道」で綾部に抜けられると言う。

 雨がパラつき始めた。傾斜が増した道を、峠小僧を気取って駆け上がった。追いついた車が邪魔だったが、ほどなく車線が狭まったため「露払い」をお願いして後に続いた。何回もの徐行しながらのすれ違いに、先ほどの婦人の歯切れが悪い応答と標識が無かったことが納得できた。
 カーブのRが大きくなり、道幅が広がると谷が開けた。雨に洗われて艶のある緑に散在する人家が程良くとけ込んで、旅人の目には実に心地よく映る。

 道路地図を見ると、峠の手前に舞鶴へ戻ってしまう道がある。その分岐に気が付かなかったので、畑の手入れをしているおばあさんに「この道は県道51号か」と尋ねた。「県道ではない」との返事に、今また舞鶴に舞い戻りつつある自分を想像して不安を覚えたが、再度尋ねると、「県道ではないが舞鶴和知線だ」と答えた。
 地図を確認すると51号がそれとある。年寄りが正式な道路の名称を知っているということは、ここの住民にとってかなり重要な位置を占めているのだろう。後で気が付いたのだが、県道は自分の思い込みで、京都府だから「府」道と言うべきだった。北海道では道道だから。

 地図通りに府道1号に合流して間もなく、二王門の絵に「国宝」としっかり書かれた大きな看板が現れた。矢印の先に細い道が田の間を縫っいる。その先を目で追うと、霞んだ山裾に消えている。
 山際にある椎茸のビニールハウスを過ぎると舗装が途切れ、下りてきた二台の軽トラックとすれ違うと完全なダート(未舗装路)が始まった。雨水で掘れた溝を右左に避け、水滴の重さに耐えかねて左右から覆い被さる夏草に徐行しながら高度を上げた。
 いきなり道が分岐した。「右・○○林道」と表示があるが、道幅が広く路面状況もよい左の道を迷った末にたどった。ミラーも無いブラインドカーブにシートベルトから肩が抜けるほど首を延ばすが、対向車は全くない。鉄分が多いのか、異常に赤い道が続く。

 「そろそろ」から「もう」と期待するが、右左と新しい視界が開ける度に現れるのは山と赤土の道だけだ。峠らしき頂点から、ついに道は下り始めた。これはおかしいと不安が募り、途中のキャンプ場にあった絵地図で確認しようと引き返した。
 先ほどは仁王門の絵が見えたことからこの道で間違いないなと確信したのだが、いざ降りてじっくり見るとここより下で、先ほどの林道の先に描かれていた。再びその分岐に戻り、改めて見回すと右の薮の中にしっかり「君尾山光明寺」の道標があった。

君尾山光明寺

 「諸車進入禁止」の小さな看板が現れた。右手が広くなっている。駐車場らしい。杉の大木に覆われてほとんど雨も落ちて来ず、濡れた地面も枯れ枝が適度に覆っていて助かった。
 広げた傘の先に、本堂らしい茶色の建造物の一部が、重なり合った緑の隙間から望まれる。道なりに進むと、白地に黒の説明板が現れたが落ち着いて読む余裕もなかった。道標に導かれ、人一人が通れるだけの九十九折りの急坂を草の露を避けながら下る。
 本堂から遠ざかっているのがわかると、このままでは里まで下ってしまうのではないかという不安が高まる。その時に、下方の緑の中に予想外の極彩色の門が見え隠れしているのが見えた。傾斜が弱まり広くなった道を進む。少しずつ下部からその姿を現し始め、最後まで上部を覆っていた楓の梢をくぐり抜けると、二王門の全景が露になった。

 しかし、その姿は何か落ち着きがない。赤い門の他に何も無いのだ。身の置き所がないと言っているように深山の中で浮いている。秋、緑の中で一本だけ赤く燃えている紅葉は非常に存在感があるが、人間が造った物はやはり自然の造形には及ばないのだろうか。
 屋根は柿拭き・柱や木組は丹・櫺子窓が青・上層の中央の戸は黄色に彩色されている。しかし、風雨が当たる柱の下部は色あせてヒビ割れている。落書き様のスリキズも著しい。

 基部からのぞく柱と、基壇との空間が広すぎる。上部の重厚さに比べ、足(柱)は8本あるが、正面から見ると左右2本ずつに見える短足が、基壇と礎石との間に大きくあいた空間の相乗効果で更に不安定に見える。それが、落ち着かない一番の原因と分かった。うまく表現できないが、強いて例えれば、関取の小錦(さん、ごめんなさい)に子供の足を付けた、とでも言ったらよいだろうか。
 門をくぐると、下の参道も、基壇への石段を除くとやや広いが完全な山道だ。傾斜も強い。本来なら、麓から汗を拭き拭き登り詰めた果てに「オー」とその二王門の重量感に圧倒されるわけだが、車でその労力を省いた分だけ、乾いた目でただ振り仰ぐのみだった。
 仁王は朱に塗られ、近づくと虫食いの穴やひび割れが目立ち指先も欠けている。

 雨は本降りとならず、重なる峰々はハッキリ見える。ウグイスのさえずりを楽しむ余裕もなく門の後に並ぶ五輪塔と宝篋印塔を眺め、覆屋に収められた石仏に挨拶をして引き返した。
 振り返りながら、紅葉時の美しさを思った。しかし、色の競い合いよりどちらかが控えめであってこそ、その美しさが映えるというものだ。この論理でゆくと、緑濃い今が一番。次いで雪の季節となる。

 庫裏(くり)に近づくと犬が吠え始めた。気に入らなかったが、チャイム代わりになると思い直した。しかし、人の気配はなく、何回声を掛けても音沙汰無しだ。上がり框(かまち)の中央に白い冊子が置いてあり、世話になったと一筆書いてある。それから判断すると、かなりの時間留守をしているのだろう。
 とがめる人もいないので、無遠慮に堂内を眺め回した。不似合いな丸テーブルの上には、パック入りの卵とパンの袋が無造作に置かれている。正面奥にはレタスが置かれた流しがあり、灰色の太い塩ビのパイプから間断無く流れ落ちる水音が、水量が多いだけ辺りいっぱいに響きわたっている。これが深山の生活を象徴しているようで、見ているだけだったが身が引き締まった。
 カマドがあるということはガスがない証拠にはならないが、タイル張りの手入れのされたそれは現役のようにも見受けられた。電線が見えたが、あれは電話線だったのだろうか。

 一通りの“勝手にチェック”が終わると、生活の匂いそのものは在るのだが、人間だけがいないという怪しげな空気が気になってきた。下界ではちょっと留守したくらいの日常の一コマだが、これも深山の「気」が成すいたずらか。上の本堂に住職か寺守がいたら話を聞こうと思い、石段を再び汗にまみれて上った。
 最上部に立つと、意外に広い境内に、天保年間建立とある本堂や鐘楼その他の瓦藍が見回せた。本堂前の階段の下部を、雨ではねが上がるのか、例の赤土が汚しているのが見える。人の気配が無いのを確認すると、境内には立ち入らずにその位置から引き返した。

 諦めずに目的を果たしたのはいいが、ザッと計算すると自宅に着くのは夜11時過ぎということがわかった。しかし、この際三十分や一時間遅くなってもと開き直り、光明寺へ着いたらと延び延びになっていた昼食をとる事にした。

 今回持参した煎茶だが、急須も湯呑みも忘れてしまった。しかし、コーヒーカップにペーパーフィルターを沈めることで、何とかいれる事ができた。
 スーパーでつい手が延びた「広告の品・特価」とある巻寿司は、端面の切り口から推理すると、独立した二切れがサービスということらしい。しかし、欲張った四八〇円も結局は食べきれず、捨てようと思ったが思い直して具だけを食べた。これを物を粗末にしない表れとしたいが、意地汚いととられてもしかたがない。

 結局、食事時間を含め、里へ下りるまで人に会うことはなかった。

平成4年7月