小さな駐車場に車を置いて、吊り橋を渡った。「ここは京都」というだけで、冬の陽光にも華やかな暖かさが感じられる。
時間もよし、腹の減り具合もよしと、ガイドブックお勧めの「弁当」を期待したのだが、純和風料理旅館の「もみぢ家別館」には人の気配が無かった。ようやく現れた管理人に「上の本館へ」と言われ、国道までの九十九折りの急坂を上り終えれば、一月というのにすっかり汗をかいていた。
本館の右手にある別棟の食堂は、客の姿も見えずひっそりとしていた。どうしようかと迷っていると、いつの間に近づいたのか、女性の声で「どうぞ」と声が掛かった。サングラスと同じで、中からはガラスに張り付いている自分がよく見えたらしい。店内は、まだ体が火照っているにも関わらずうすら寒く感じられた。
「違いは、天ぷらの有る無し」と品書きの内容を確かめてから、上から二番目の「周山弁当」をお願いした。カウンターに戻った彼女に聞くと、今の時期が一番静かだという。
いつもは味も匂いも無いグルメ番組を、コノヤローと思いながらも最後まで見てしまう自分だが、今は仲居さんが本館から届けてくれた弁当を前にし、頬の筋肉を緩ませながら色や形に感動している。
「これは何だろう」と一品ずつ味を確認し、歯ざわりを楽しみながらゆっくり味わったが、見せびらかす人もなく「もみぢ家の弁当」というブランドを食べた事に満足するだけだった。
楼門に続く石段の両脇にある茶店は、全て閉まっていた。行き会う人もなく、「えー、ここが高雄」という静けさに、国宝の薬師如来を本尊とするこの寺の広い境内を独り占めにしている喜びにも寂しさが付きまとう。「紅葉の季節を外せばいかにも幽玄な山寺」とのガイド文も納得できた。
昼下がりの金堂に、大寒を前にした陽光が奥深く侵入している。その日溜まりに、本を前に身じろぎもしない若い僧の姿があった。拝観手続きが終わると、彼はまた手元に視線を落とした。
「かわらけ投げ」の広場も、無人の売店と冷たい風があるだけだった。深い谷底の杉の根元に散乱しているであろう無数の陶片を想像すると、寒さがいっそう身に染み、下山の他に選択肢が無いことに気が付いた。
現地で「日本茶発祥の寺」と知った高山寺に寄ってから、常照皇寺を目指す。高雄から丹波高地に分け入り福井の小浜へ抜ける国道162号は別名周山街道と呼ばれ、清滝川を左に見ながら徐々に高度を上げている。
川向こうに、北山杉を取り扱う事業所が続く。どこかで見たような光景に「そうだ、沢口靖子の勤務先だ」と気が付いても、最近視聴した彼女が主演したテレビ映画「古都」での話だ。しかし、祭日(成人の日)のためか人の姿は無く、ただ木を磨く女性たちを想像するだけだ。
ひっそりとした北山杉の谷を坦々とさかのぼる。直線と三角が織りなす幾何学的な樹形が連なり、林業関係者の言う「山は手を入れると美しくなる」究極の山がここにあった。栗尾峠を越えると、国道から離れて桂川に沿う道をとった。
整地しただけの湿った駐車場は自分の車だけで、寒々しい。塀の外れに少し飛び出た櫓が鐘楼と分かるまで、寺の佇まいは全く感じられなかった。花頭窓がある伽藍も、柱などの木部に対して間延びしたように見える白壁が何となく田舎臭い。
方丈の前に立ってもただの山寺で、「常照皇寺」は一体何処に行ってしまったのだろうと、私がイメージした「皇」とは異なった雰囲気に戸惑った。
奥から話声が伝わってくるのだが、「御自由に」の張り紙に、あえて声を掛けるのを止めた。
財布に小銭が百円しかないのに気がついた。せめて拝観料は三百円と、全てのポケットを改めたが無駄だった。お寺では、さすがにそれで済ませることはできない。かと言って「お釣りを」と申し出るのも…。意を決して千円札を入れ、普段は縁が無い奉加帳に、住所と大きな字で「金一千円」としたためた。
外からも見えた、堂宇を結ぶ回廊を渡る。外のまぶしい太陽の恵みも堂内には届かない。廊下や畳に感じた冷ややかさも、開山堂の陶板が敷き詰められた床に比べればまだましだった。一枚の生地を通して感じられる固さと冷たさに、接地面積を小さくしようと足裏を縮めることに専念した。
庭に、何本もの支柱に支えられた天然記念物の「九重桜」がある。今は半分朽ちた黒い幹に枝がうなだれているだけだが、庭に残る雪の白さから満開の花を想像してみた。唐破風の勅使門を前に見る回縁に座り込み、桧皮から雨垂れがしきりに落ちる音を聞いた。
山好きなら「京都北山」という名に記憶があるだろう。(長野県の)諏訪では生活のバックグラウンドとして三千米級の山に囲まれているが故、低山ながら京都の北部に位置する山には憧れがある。『古都』に登場する、里子に出された苗子が育った「花脊」とはどんな所だろうとか、「芹生」の名も思い出させる。
陽が満遍なく照らす明るい道にも両側に汚れた雪が現れ始め、鞍馬への道を右折すると、杉の山中に続く道は雪に覆われていた。四駆(四輪駆動)に切り替え、気を引き締めながらも京都の雪道を楽しんだ。
いきなり現れた集落が花脊だが、深さを増した雪と日の陰りから美しい名の里もどこへやら、目に付いた隠れ里には不似合いなウェスタン調の喫茶店で一息入れるだけとなった。
花脊から一気に鞍馬へ下ったが、5時近くとあって鞍馬寺の拝観は遠慮した。
平成3年1月