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精霊の棲む「風の森峠」〈奈良県北葛木郡新庄町・御所市〉

風の森峠

 「葛城(かつらぎ)古道を歩くなら、この峠をゴール地点にしよう」と決め、未だ見ぬ風の精霊が住む峠に立つ自分を想像した。しかし、ここ数年、「今年こそは」が「来年には」の繰り返しだった。

葛城古道を歩く (新庄町から御所市)

 デイパックを背負い、「サー」という時に若い女性に声を掛けられ、出発時の張りつめた心が乱れた。少し胸が高鳴ったが、何の事はない、例の聖書のアレである。

 十時近く、新庄町の屋敷山古墳を手始めに、葛城の古道を歩き始めた。風もなく、気温も高めの山麓は穏やかで、正面の葛城山から両脇に目を転じるにしたがって霞んでゆく山並は、春を思わせた。

笛吹神社

 山際に広がる笛吹の里は薄日に包まれていた。麓からの道が山に接すると、葛木坐火雷神社(かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ)があった。予想せぬ名前にオヤッと思ったが、笛吹神社はこの神社の俗称と分かり安心する。

 鳥居の傍らにある一本のモミジに、思わず声が出た。ここ十年来、見たこともない鮮やかな紅葉に、朝三時起きの苦労が報われたと喜んだが、短い参道の向こうには、更に何本かの大きなモミジが、赤・橙・黄と、背後の杜が暗いだけにくっきりと浮かびあがっていた。
 拝殿に続く石段を登りきって振り仰ぐと、錦は逆光の下(もと)で透明に燃え上がり、飛び散った色が顔に染まるようで何回もため息が出た。一人下の境内で落ち葉を掃き集めている人も絵になり、立ち去り難かった。記念にと、その一片を拾い上げ、ガイドブックに挟んだ。

六地蔵

 一旦県道に合流し、櫛羅(くじら)の鴨山口神社から再び古道に戻る。猿目(さるめ)の集落には、紅白の幕に飾られた嫁入り道具を載せたトラックが二台止まっており、大石に彫った六地蔵の前では、娘の写真を撮る父親の姿があった。
 古道を歩くという行為にあって、その「二人の世界」は余りにも華やか過ぎた。そこに踏み込む事は何か罪悪のように感じられたが、遠慮しながらも図々しく割り込んだ。
 のぞき込んだお地蔵様の顔は風雨で摩滅しており、その無表情からは、我々のことには全く関心がない様に見えた。

 いくらか増え始めた古道歩きを楽しむ人達の後先になりながら、南へ向かう。今までは見られなかった新しい道標が現れ始めた。「人工的な観光ルートのようだ」と反発したが、それが無ければすぐに迷いそうな畑の中の道や刈り取られた根元に新たに伸びた緑が目立つ田の畦道で、あっちへ・こっちへと心細く歩いた。

九品寺

 ざわめきと車のエンジン音で、次の目的地に近い事が予想できた。九品寺(くほんじ)だ。本堂脇から裏へ続く、南北朝の戦死者のものと伝えられる千体仏は、一体一体模様や色の違うよだれかけが掛かっていた。しかし、この季節は、この寺の主役は紅葉で、多くの人が下より上を仰いでいた。

一言主神社

 「大和三山が一番よく見える」との説明板に一応矢印の方向に目を凝らしたが、山並はもちろん、飛鳥の地も霞み、いよいよ雨かと覚悟を決めた。
 葛木坐一言主神社(かつらぎにいますひとことぬしじんじゃ)は「いちごんさん」で親しまれている、とある。そのルートの判断がつかず山際の小道に踏み入れた時に、観光客には関心ないよとの顔をしていた年配の男性に、「いちごんさんは、こっちの道だ」と声を掛けられた。

 ここに祀られている葛城坐一言主の神は一回だけ願い事を聞くというが、今は、まだその時ではない。長い人生だ、後の楽しみにとって置こう。『記紀』の、雄略天皇と葛城の神の出会いを思い浮かべ歩みを進めた。

極楽寺

 背後からせき立てる「雨」の一文字が無意識の内に足早にさせ、休みもとらないために、上りの車道歩きが辛くなってきた。
 収穫中の柿畑は、すでに霜が何回か降りたのか、葉がすっかり落ちていた。その中を縫う道が左に曲がり始めると、何処からともなく話声が聞こえ始めた。それが騒音に変わると、突き当たりの広い道の右手から続く百人は越えると思われる団体に遭遇してしまった。反発して、一人道の反対側を歩いてはみたが、すぐにその中に呑み込まれてしまった。
 「葛城を歩く会」の旗を持っている老若男女でごった返す極楽寺は落ち着かず、早々に後にした。

橋本院

 橋本院への道は完全に山道で、このコース一番の難所だった。予想もしなかったすれ違いも難しい薄暗い急坂が続くと、「尽きない話」に感心していた、後続の女性二人連れの声もいつの間にか遠くなっていた。
 木々の間に明るさが戻ってきた。そのトンネルを抜けると、「そこは…」の感じで現れた山田に囲まれた小さな里には、隠れ里の雰囲気があった。寺の白壁が遠目にも目立つのが印象的だ。

 橋本院の境内を眺めていると、風が出たのか、遠くの高い木から一面に葉が舞うのが見え、同時に雨も感じ始めた。
 「葛城を歩く会」の「先鋒隊」が現れ始めたので、傘を取り出し高天原(たかがまはら)へ急いだ。

高天彦神社

 絵馬の懸かった高天彦神社(たかまひこじんじゃ)の舞殿に、先ほど追い抜かれた「よくしゃべる二人連れ」が休んでいた。小雨で境内が薄暗いためか冴えない山奥の神社との印象を受けたが、参道を下りながら振り返ると、雨に煙った御神体である山の円錐形が、紅葉と共に印象的だった。「しっかり覚えておこうね」の声が背後から聞こえた。

 急な下りが続く。傘もささずに前を行く二人の横にワゴン車が止まった。女性ドライバーが「よかったら乗りませんか」と声を掛けたが「結構です」と断っていた。「ここで乗ったら、この道を歩く意味がなくなるよネー」と連れに向けた言葉に、思わずうなずいた。
 幸い雨は本降りにならず、山裾の、平坦で単調な、しかも見所が全くない道をひたすら歩き続けた。

高鴨神社

 「葛城の道」資料館の前に疲れて座り込む人達をよそに、放生池畔ではモミジだけが元気に燃えていた。それを見ながら鳥居をくぐる。
 高鴨神社(たかかもじんじゃ)の参道の脇に、何も置いてない階段状の大きな鉢台があるのを見つけ、宮司がさくら草の収集家である事を思い出した。
 拝殿前のモミジも見事だったが、朝からの紅葉責めに幾らか感動も薄れてきた。笛吹神社では、うれしさの余り思わずニヤニヤした顔を、いつの間にか現れた観光客に見られてバツの悪い思いをしたのに。

 憧れていた峠も目前となり、もう急ぐ事もないと桧の香りも高い新しい休憩所に腰をおろして紅茶をいれた。駐車場脇ではタコ焼きが匂いで誘惑していたが、それを口にすればここまで培ってきた古道歩きの世界が壊れる様な気がして、グっとこらえた。
 実は、このコースは食堂の類は一軒もなく、行動食のパンを食べただけだった。その分、新庄の町でうまい晩飯をと思いながら、終わりに近いコースを点検した。

 ここから高宮廃寺まで足を延ばしても直接国道に出られるが、やはり、フィナーレは「風の森」とこだわりたい。雨は上っていたが、そこまで往復する気力はすでに失せ、「もう時間が無いから」と自分に言い訳し断念した。

風の森峠へ

 下方に、行き交う車が小さく見える国道が見え始めた。振り返ると、金剛山の懐に広がる家並みは只の農村風景だが、点在する大和棟(やまとむね)の存在に、「ここは奈良なんだなー」との思いを改めて強くした。更に、痛いような足の重さに古の道を歩き通した事を実感すれば、充足感も広がってくる。
 小さな石の道標を見てから、それとわかるこんもりとした杜を目指す。すぐに現れた十字路に構わず直進すると、いかにも裏道という感じの踏跡が見つかった。

風の森神社

 雑木をくぐり抜けると、あっけなく、「旧高野街道の風の森峠の頂上にある」という神社の小山に立っていた。
 近くの畑から漂ってくる煙の匂いに包まれて、両脇に榊が供えられた小さな祠がひっそりと鎮座している。高さも不揃いの左右で形の違う灯篭がこの神社の現在の地位を物語っていて、それが返って、風の森の名前にふさわしかった。
 イメージと違って、ガイドブックに「風水害から守る風の神志那都比古命を祠る」とあるのを読む。見回せば、今朝三時半に家を発って、同じ三時に長年憧れていたこの峠に、今、立っているのが不思議だった。

新庄へ戻る

 「風の森」バス停に、古道歩きの乗降客が多いのだろうか、切符売のおばさんが何処ともなく現れた。予(あらかじ)め各種の金額を印刷してある切符を組み合わせて目的の額にする方法が面白く、新庄行きは二枚となった。

 バスの暖房に、湿って冷えた体が心地よい。座っているだけで移動する窓から今歩いてきた葛城の山々を眺めたが、ガスでハッキリと見えないのが寂しかった。三時半のバスに乗ったが、四時過ぎには新庄の町に立っていた。

柿本神社

 JRの駅のある繁華街を背に、近鉄の新庄駅へ向かった。駅の裏に、柿本人麻呂縁(生誕地)の柿本神社があるからだ。神社と並んで山号が「柿本山」という影現寺があるのが面白かったが、暗い境内は余りにも寒く寂しく、早々に引き上げた。

新庄の街を少しだけ歩く

 新庄は、昔の佇まいがよく残っていた。近代的な建物が多い医院もここでは格子窓の続く一般家屋と変わらず、控えめに「醫院」の看板を掲げていた。また、今時商売になるのかという不思議な傘屋もある。しかも、店内の明かりの下で主人が机の前に座っているという光景に、一時代の昔に紛れ込んだ様なおかしな気分になった。

 駐車場へ向かう道には、自分に約束した豪華飯を提供してくれる店はなかった。寿司の看板に一旦は立ち止まったが、入る気にはなれず、空腹のまま車に辿り着いた。

平成2年11月