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春、観音様が笑った〈滋賀 湖北〉

湖北の観音様

 当時、NHKで『国宝への旅』シリーズが放映され、欠かさず視聴していた。標題の「春、観音様が笑った」は、琵琶湖の北部に点在する十一面観音を紹介した番組名で、自分の参拝記もこの題名に代わるものはないとして、無断で戴いた(流用した)

 敦賀方面にはチェーン規制がでていたが、北陸自動車道から降りた街並みは春の日射しに包まれていた。

向源寺(渡岸寺) 十一面観音 高月町

 向源寺(こうげんじ)観音堂の境内は薄汚れた厚い雪に覆われていたが、御堂内では、彼岸会(ひがんえ)に集った「老老」男女の熱気が充満していた。集中砲火のように一斉に向けられた視線を体の左側に受け、幾らか緊張気味となった足取りで受付へ行く。拝観の申し込みでは、「今日はお彼岸だから」とお供物を頂き、何か得をしたような気持ちになって収蔵庫へ向かった。

渡岸寺十一面観音(国宝・平安)
 観音像は高さ約1.95m、頂上面を除いて一木彫で、腰を少しひねったその姿は平安美女の化身のようで官能的ですらあるが、崇高さを失わない。
山川出版社『滋賀県の歴史散歩』

 観世音菩薩は男でも女でもないと知識にあっても、そのエキゾチックな顔と官能的な肢体を拝観すれば、やはり女性を見てしまう。背後に廻り後頭部の暴悪大笑面を見る。全身をくまなく眺める拝観し終えれば、再訪した甲斐があったと、足裏の冷たさを忘れるほどの深い満足感で体の芯が熱くなった。

 今年の元旦に訪れた時は、5時前にもかかわらず管理人が警備保償のダイアルをセットし終った直後だった。一応声をかけたが、申し訳なさそうな声で断わられてしまった。日吉大社の初詣の華やかさから始まった右回り琵琶湖一周の旅だったが、最後の目的を果たせなかったこともあり、一月一日の終わりを告げる灰色の暮色は一人身には辛かった。
 管理人のたどる家路の先に待ち受ける家族や自分自身の家族のことなどを思い浮かべると、吐く息が一層白く感じられ、首筋の寒さに全身が冷えかけてきたのを感じた。その時は溶け残った道路脇の雪が見当たるだけで、3月の雪の多さは想像できなかった。

 本堂への渡り廊下に出ると、まぶしい陽光とは裏腹に薄汚れた雪上を渡ってくる風に首を縮めた。(信州と違い)関西は暖かいというイメージだったが、そのギャップに戸惑い、「湖北」といわれる「北」に寒さを重ねることとなった。

石道寺 十一面観音 木之本町

 滋賀県は十一面観音信仰が盛んなところで、その仏像の数は百体以上もあるという。

 石道寺(しゃくどうじ)のある木之本は、向源寺のある高月町の隣町。その山裾の小さな集落の中に掲げられた案内板には、その日の当番と電話番号が書いてあった。連絡をすると案内人が現れるという仕組みだ。その前で「面倒だな」と思案していると、通りがかりの人が先んじて連絡をしてくれた。立派な文化財のある歴史の里を誇に思っているのか、その積極的な好意が嬉しかった。
 しばらくすると鍵を下げたおばあさんが現れた。一人きりですみません、と言い訳しながら後に続いた。人家脇と言うより軒下の小道を何度か廻ると不意に雪の壁が現れ、それに沿った突き当りに御堂があった。寺といっても、小さな観音堂がただ一宇だけだった。

石道寺
 本尊の十一面観音(重文)は一木造りの彩色像で藤原中期の作といわれ、素朴な温容と、心もち左に腰を捻った秀麗な姿態は見る者の心を打つ。(抜粋)
JTBの新日本ガイド『近江 若狭 北近畿』

 口元の紅が鮮やかな十一面観音に手を合わせた。たった二百円でわざわざ来てもらい恐縮です、と言うと「いいえ、これも生きがいの一つですよ」と笑った。

 往路には気が付かなかったが、日溜りに水仙を見つけた。そこだけ雪壁の一部が溶けて、濡れた黒い地面が顔をのぞかしている。葉の緑と黄金の花芯がまぶしく、諏訪と違う春の訪れを強く感じた。

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若狭の観音様〈福井〉

羽賀寺 十一面観音 小浜市羽賀

 湖北から若狭へ向かい、小浜市にある羽賀寺の十一面観音(重文・平安前期)を拝観した。(令和の今になって読んでみると、参拝記が書いてなかった。ということで、以下に続く)

明通寺 小浜市門前

明通寺(みょうつうじ)
 薬師堂ともよばれる本堂(国宝)は、1258(正嘉二)年に棟上げされ、1265(文永二)年に落成した建物。
 三重塔(国宝)は、1270(文永七)年に建立された高さ22.13m、ひわだぶき和様の三間三重塔で鎌倉時代建築。
山川出版社『福井県の歴史散歩』

 明通寺の小さな山門をくぐり、枯草の小道を歩く。本堂に近づくと、厚い桧皮葺の軒から雨だれのように落ちる雪解け水は、あたかも豪雨のようにこの辺りを圧していた。大木に覆われて日射しは少ないのに、春は、冬の名残の雪塊を一気に押しつぶしていた。

 冬と夏の夕立が同居している様な3月の古刹だが、三重塔の基壇へ続く石段は、未だに汚れた雪に覆われている。不規則についた足跡の窪みには、雪で折れた杉の小枝が幾つも落ちていた。屋根にはまだ雪がしがみついており、厳冬期の寺の厳しさが想像できた。

 団体客の応対を終えた若い僧に声をかけると、やはり雪下ろしは何回かします、と当たり前の様に答えた。

昭和61年3月