朝熊山(あさまやま) 伊勢市の東部にそびえ、標高555mと志摩半島周辺では最も高い。
史跡 朝熊山経塚群(あさまやまきょうづかぐん) 伊勢湾台風の倒木整理中に、精巧な線刻を施した鏡・経筒・経巻などが多数出土した。
「これが国宝」とは思えぬ地味な形の経筒や鏡を展示してあるのが、金剛證寺(こんごうしょうじ)の宝物館だった。閑散とした空間には耐えられない、というように新聞に目を落としたままの受付に、経塚の場所を尋ねた。「男の人なら二十分ですね」と返ってきた。
修理中とあってブルーシートやコンパネに囲われた本堂を横目で見て、仮本堂の前を通り奥ノ院へ向かった。朽ち掛けた鳥居をくぐり、山道の傾斜が増すと全身が汗ばみ始めた。標識を見て左に折れ、登り詰めると視界が開けた。「史跡 朝熊山経塚群」と深く彫り込まれた石柱の向こう側に、幾つかの五輪塔が見えた。
最初に目についた塔に「3」の文字が刻まれている。梵字にもこんなシンプルな字があるのかと不思議だった。見馴れた五輪塔の他、先の丸いものや尖ったもの、方柱に回転する輪がはまったものなどが、まるで「展示場」の様に山頂直下の凹凸のある斜面に無秩序に並んでいる。30m×20m程だろうか。そこだけ草が刈り取られ、鏡・経筒等が出土した「国の史跡」の面目を保っていた。
最上部に小石を積み上げた小さな石垣があり、あれは別格だな、と近づいた。石塔の前に立て掛けられたような高さ30cmほどの石仏には、頭の代わりに発泡スチロールの塊が乗せられている。「いくらなんでも」と思ったが、よく見ると小石だった。それに見間違えるほど、背後にある石塔の赤錆色に比べてその白さが異常だった。付近は勿論、登山道も赤茶けた石があるだけで、「一体どこから」と、代替の頭を置いた人の「白」にこだわった理由に想いを寄せた。
経塚がある東向きの斜面から見下ろすと、薄曇りで色も輪郭もハッキリしない手前の鳥羽湾・答志島の向こうに渥美半島が霞んでいるが、それでも船の白い航跡が幾筋か見える。
それに代わって周囲を見回すと、去年のススキが風に騒ぎ、地はまだ萌えきらず緑が乏しい。ウグイスのさえずりは聞こえるが遠くにカラスの鳴き声も耳につき、石塔の群が、隔絶されたこの小さな空間をそれらしく創り出していた。ところが、目の前の、この朝熊山の北峰にある展望台の駐車場には車があふれ、スカイラインを登り下りするエンジン音は途切れることがない。
振り返れば、近くの山頂に、無視したくも余りにも巨大なパラボラアンテナ群がそびえている。そこで、目と耳にフィルターをかけ、末法に脅え此の地に経を埋めた人々も見たはずの、未だ色が定めきれない春のおぼろな山々と海だけを強制的に意識に留めた。
この史跡や寺を尋ねるには、どうしても千三十円也を払い、「伊勢志摩スカイライン」と名の付いた有料道路を使わなければならない。金剛證寺宝物館の受付にその事を話すと、「他は登山道だけだ」とすまなそうな声が返ってきた。それだけ山深いと言えるのかも知れない。
初めに見た「3」は算用数字で、新しい石塔群に付けられた1〜28までの通し番号だった。
平成4年4月